2025年も1月が終わって。1年の12分の1がもう過ぎてしまった。
愛猫との別れもあって、楽しく過ごしてるつもりでも、心の中の深い溝にふとしたきっかけで落ちてしまう。
今までもずっとそうだったけど、ぽっかり空いた心の穴からは相変わらず先が見えなくて、モヤモヤがまた我が物顔で私の心を牛耳ってる。
人と考え方が違うのは、もう十分に分かってることだけど、やっぱり何処かで分かってほしいと甘えてる自分が常にいて。
そんな自分に気付いては嫌気がさして、家に帰るように殻に閉じこもる私。
あぁ嫌だ。
そう思うたび首を振っては今に目を向けて、私は今こうしてちゃんと生きてるじゃないかと自分を奮い立たせてみたりする。
多分私は、周りの人と同じようになりたくて、どれだけ上手く擬態するかに人生の大半をかけてきたのだと思うけど、感覚が敏感過ぎると擬態するにはとても不便だし、例え擬態できたとしても、どこか変に浮いてしまうし、とても疲れてしまう。
だけどだからといって、感覚のボリュームを出来るだけ下げておくと、今度は無表情のロボットのように映るらしい。
ロボットに見えると言われるのはショックだったりもするけど、それは私にとって人に囲まれてる時ほどとても必要で、本当はいつもそう出来たらと思ってたりするんだけど、それが好ましく思われないのも身に染みて分かってる。
それに、ボリュームを下げておこうとすると、拒まれる怖さがすごい顔をして後ろを追いかけてくるから、結果的にすごくぎこちない人になってしまう。
だからやっぱり、これはこれで変に写ってしまうんだ。
本当は、ただ好きなことを勉強して、自然の音に囲まれて、自然の中に包まれて、見えなくても感覚で感じられる心地よさを堪能しながら、ただ私として毎日を過ごしたいけど、ここにはそれを簡単にペシャンコにする刺激が溢れすぎていて、気がつけば私は息ができなくなって蹲ってる。
だからといって1人きりで、どこか森の中に住む勇気もないから、毎日どこか途方にくれながら、この先私は一体どうすればいいのかとフラフラしてる部分があるんだと思う。
ニードとギューフとイス。
2024年の終わりによく出たルーン。
多分私に必要なのは無償の愛で。
今は春の雪解けを静かに待つ為の毎日で。
愛は目には見えないけど、こんな言動は愛の表れなのかもしれないというのはあったりする。
それを私は愛する人たちに見せたいし、できれば、見せてもらいたいという欲求もあって。
だけど、多分、私に1番必要なのは、自分自身への愛。
自己否定も自己嫌悪も奥深くまで染み付いて取れない私の心をゆっくりとゆっくりと温めるような、私自身への愛。私自身を見捨てない愛。
見える世界と同じくらいに、それははっきりここにあるんだと、私自身が私をそのままに受け止めて認める、そんな大きな愛を感じられるように。
私には見えない世界を大切にする必要があるんだと思う。
見える世界の中で見えない世界を大切にするのは、大変だと感じる時も多くあるし、考え方が違う人も全く理解できない人もいるんだけど。
この世界に自分以外の誰かがいるから自分と比べることができて、比べた結果、不出来な自分が丸見えになって落ち込んだりもするんだけど。
違いが分かって初めて、その違いを受け入れたり、私自身を信じる道を選択することができるんだとも思ったりする。
傷つくのが怖いから、やっぱりこれは違うかもしれないと、違ってた時のためのクッション材を沢山準備しておくのもいいんだけど、本当はもっとそんなんじゃなくて、ガッツリと。
根拠のない自信をもって、例え違ってても、例え傷ついてしまったとしても、それでも信じ抜きたい。
きっとこれは、大きな大きな私から私への愛だと思うから。
直感も音も香りも光も。
自分の感覚を信じると決めて。
私自身の為に私を愛して。
誰かを愛せるように私を愛して。
愛で私の世界を満たす。
そんな風に生きていきたい。
信じる心も愛も目には見えないものだけど、感覚でみたら、優しくて柔らかくて温かくて。
私にとってそれは、キラキラと溢れる光がとても素敵で、見える世界も一緒になって輝いて見えてくるんだ。